愛国の右翼と左翼の日々

極右大学院生と極左大学生の勉強の軌跡

#2.5 「百田尚樹現象」続き「ニューズウィーク日本版はなぜ、「百田尚樹現象」を特集したのか」2019.5.31より

つい昨日更新したNewsweek日本版の百田尚樹特集について、Web版のNewsweekがコメントを出していたので紹介する。

5月28日に発売された特集「百田尚樹現象」(6月4日号)に、大きな反響をいただいています。有難いことに、読んでくださった方から評価する声がたくさん届いていますが、なかには特集を告知した時点で「天下のNewsweekが特集するテーマですか?」「これ持ち上げてるの?disってるの?」という質問も見受けられたので、なぜこの特集を組むことにしたのか、お話しさせていただこうと思います。

そもそもの出発点は、『日本国紀』(幻冬舎)は一体誰が読んでいるのか、というシンプルな問いでした。

本特集が百田支持かそうでないか(結果的にプロパガンダにはなるかもしれないが)などという二項対立は意味のないことであり、「これ持ち上げてるの?disってるの?」などというお馬鹿な質問をするのは論外であるというところはさておき、この「出発点」は雑誌で説明されていた通りである。

こう問うことの根底には、アメリカのリベラルたちが、自分たちは実はマジョリティーではなく、自分たちには見えない「もう一つのアメリカ」が確かに存在したのだということを痛感させられたトランプ現象の衝撃がある。

もちろん、百田現象とトランプ現象を同列に並べることはできません。そもそも、百田尚樹「現象」など存在しないという見方もあります。しかし、現象の広がり方や立場などに違いはあるにせよ、2人には共通点がありました。どちらもテレビ番組の手法を熟知し、ツイッターポリティカル・コレクトネス(政治的公正さ)など意に介さない言動を繰り返す。

また、この特集を組むにあたって取材を進める上でのスタンスを、「『批判』ではなく『研究』」と説明する。

「百田人気を支えるもの」について、是非を問うのではなくフェアに研究しよう、と。仮説を立ててそれを立証するための素材を集めていくのではなく、「日本国紀は誰が読んでいるのか?」という小さな問いからスタートし、そこに連なる素材を探しながら一つ一つ検証する。演繹法ではなく、帰納法

単に批判したいだけであれば、当人たちに取材せずにパソコンに向かって批判ありきの評論を書くこともできますが、私たちがやりたかったのは「批判」ではなく「研究」です。

 下の引用は最近よく見る三流ネット記事への皮肉のように感じられて、少し痛快だった。

ちょうど、百田本人がこの特集についてTwitterでコメントを出していた。

「小説家としての百田尚樹」の評価も、文壇でどう語られているのか今度追ってみたい。

少なくとも『日本国紀』批判ツイート騒動では、作家から百田への批判が「ベストセラー作家への嫉妬からくる行動」として読み替えてしまう人もいるようだ。

 

極右

#2 「百田尚樹現象-「モンスター」はなぜ愛され、なぜ憎まれるのか」Newsweek日本版2019.6.4号

6月4日号のNewsweek日本版ではノンフィクションライターの石戸諭による「百田尚樹特集」が展開されていた。

ja.wikipedia.org

日本のリベラル派にとって、もっとも「不可視」な存在の1つが「百田尚樹」とその読者である。誰が読んでいるかさっぱり分からないのだ。  

本人にもあらかじめ伝えたように、百田と私は政治的な価値観や歴史観がかなり異なる。「リベラルメディア」と言われる毎日新聞で10年ほど記者経験があり、これだけ売れているにもかかわらず周囲で『日本国紀』を読んだ人に出会ったことはなかった。つまり、私自身も現象を捉えきれていない1人なのだ。だから、知ろうとすることから始めた。 

 石戸氏はこの特集を組むにあたって、取材の動機をこう説明している。百田本人への3時間半に渡るインタビューや百田を取り巻く出版社、テレビ局の社長らへの取材を元にした20ページの大特集だった。今話題の幻冬舎社長、見城徹のインタビューもしっかりと盛り込まれていた。

「『日本国紀』は百田尚樹という作家の作品であり、百田史観による通史だ。百田尚樹という作家が、日本という国の歴史をこう捉えたということ。これがはるかに大事なんだよ。まさに叙事詩だ。彼は歴史家じゃなくて作家。作家によって、新しい日本の通史が書かれるという興奮のほうが大きい。僕は百田尚樹がどんな政治信条の持ち主でも出しましたよ」(インタビューより、見城徹

百田を支持するテレビ局や出版社の社長が重視するのは「面白さ」と「売れる」だ。彼らによれば百田尚樹は歴史家ではなく小説家であり、彼の歴史観が誤っていようがいまいが、コピペを疑われようが、名誉毀損で訴えられようが、売れるものは売る、売れる作家には寄り添う、というのが彼らの言い分のようだった。商売人としては真っ当な判断だと思う。

百田尚樹は論客なのか。

論客じゃないです。小説家です。 

 最後の石戸と百田とのやりとりもこう締めくくられている。

TSUTAYAのデータでは、『日本国紀』の主要読者層は40~50代だという。彼らが20~30代の若者だった頃、『戦争論』(幻冬舎,1998)の小林よしのりや『国民の歴史』(産経新聞社,1999)の西尾幹二といった右派論者がメディア上で存在感を示していた。石戸は、今の百田現象は「アマチュアリズム」と融合して形成されているという社会学者・倉橋耕平の主張を引用している。百田は小説家、小林は漫画家、西田は哲学者である。

プロの歴史学者はアカデミックな手続きを踏んで、実証的かつ客観的に研究しようとする。それに対して百田なら、歴史に基づき「面白い物語」をかくという目的がまず先にある。彼にはプロが語る歴史だけが、歴史ではない、という思いもある。言い換えれば、作家が通史を書くことが挑戦なのだという意識が根底にある。 

倉橋の指摘するアマチュアリズムは、カウンターカルチャー的なマインドと言い換えていいだろう。(中略)

それは、権威=朝日新聞(リベラルなマスメディア)に対するカウンター意識であり、「反権威主義」だ。彼らから見れば、今の日本の言論空間は学界もメディアも、リベラル共同体に独占されている。そこで、90年代から右派は主戦場を学会や論文ではなく、雑誌や漫画というサブカルチャー的な場に定めた。 

 この流れで、「ワイドナショー」の松本人志を思い出した。

日曜の昼ころになると、こんなツイートが毎週のように散見される。内容はともかくとして少しうんざりするが、一方で「ワイドナショー」は番組のコンセプトについて、番組中でこう説明している。

普段スクープされる側の芸能人が個人の見解を話しに集まるワイドショー番組です。

何を言われようが彼らにとっては「時事問題に対しては“アマチュア”な自分たちが、個人の見解を駄弁っているだけ」という認識なのかもしれない。安倍総理と仲良くしようが、後輩芸人を干しあげていると噂されようが、松本人志本人からしてみれば自分たちは「反権威主義者」なのかもしれない。
実際、松ちゃんの芸風は貧乏だった自分が世間の「幸せなマジョリティ」から我慢を強いられてきたというバックグラウンドが強いような気がする。「金がないならアイデアで勝負すればいい」と昔の著書にも書いていたし。

 

インターネット世論を研究する立教大の木村忠正教授による調査でも、中間から求められる謝罪に反発する層は8割であり、それは政治的スタンスと関係がない。石戸は「こうした反発はインターネット上の空気とも関連しているのではないか」と指摘してる。

日本最大のニュースサイト、ヤフーニュースのコメント欄に書き込まれたデータを、ヤフーからの提供を受けて木村が分析した。そこで見えてきたのは、書き込みの強い動機に①韓国、中国に対する憤り②少数派が優遇されることへの憤り③反マスコミという感情、があるということだ。

木村はこれを「非マイノリティポリティクス」と呼ぶ。本来、数の上ではマジョリティーなのに、マジョリティーとしての利益を得ていると実感できない人々が声を上げる。これがネット世論をめぐる政治だ。

中韓に「怒り」を爆発させ、朝日新聞という大マスコミを批判する言葉は、非マイノリティポリティクスと相性が良い。マジョリティーである「ごく普通の人」は多かれ少なかれ、中韓への違和感や疑義を持って、生活している。百田の言葉は「ごく普通の人の感覚」の延長線上にあるのではないか、と。

石戸は百田が多くの人の心をつかむのはなぜか、という問いにこう仮説を表明している。ただ、松本も百田も、その発言一つが多くの人に届き、反響も及ぼしやすい「声の大きな有名人」であり、自分たちが普通の感覚を忘れていない、などと思うのは少し違和感であるような、そんな気がする。

リベラル派からすれば、このレポートは「差別主義者に発言の場を与えたもの」と批判の対象になるのかもしれない。だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に「見えない」世界が広がるだけだ。トランプ政権を誕生させたアメリカを思い返せばいい。(中略)

数の上では少数派であるリベラルエリートたちは、彼らの怒りの根深さと、その広がりを捉え切れていなかった。日本でも同じことが起きているのではないか。リベラルが「百田尚樹」を声高に批判しているその裏で、「ごく普通の人たちの憤り」が水面下で根を張りつつある-。

「敵」か「味方」かが第一に問われるようになるとき、分断は加速する。二極化の先にあるのは、先鋭化した怒りのぶつけ合いだ。問題は残り続ける。

不都合な現実から目を背けてはいけないのだ。

石戸は結びでこう警鐘を鳴らす。確かに多くの人は面白いもの、共感するものを求める。SNSでは「見たいものだけを見る」ことができる。番組を作る人、本を売る人が「売れるもの」の味方であることには何の文句もない。それに対する価値を決めるのは一般大衆であるべきだと思う。

それだけに、リテラシー教育の重要さを痛感させられる。先ほどの小林よしのりや西田幹二の例から考えれば、学生時代に触れたものの持つ意味はやっぱり大きい。リテラシーや倫理観を磨くためにも、結局は今の勉強を一生懸命やらなければならないのかなあというところに最終的には戻ってくるようだ。

 

追記:個人的に百田尚樹関連の話題で一番笑ったのは、爆笑問題太田光が「爆笑問題カーボーイ」にて、佐藤浩市を「三流役者」とDisった百田を「永遠のハゲ」と呼んで批判していたことだった。

 

極右

#1 「いだてん不人気言説」に見る批評精神の重要性

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、日本初のオリンピック出場選手の一人、金栗四三東京オリンピック招致の立役者である田畑政治ら近代日本スポーツの発展に寄与した人物たちに注目し、日本人とオリンピックとの関わりを描いたものである。

 

❝鬼才❞宮藤官九郎の脚本と豪華で個性的なキャストの顔ぶれが注目されているが、大河ドラマの前例をことごとく覆す作風で戸惑う大河ファン(というか年寄り)が多いらしく、視聴率の低下が叫ばれている。

special.sankei.com

本作に登場する東京高等師範学校は僕の通う筑波大学の前身校の一つであり、主人公である金栗四三はいわば先輩にあたる。
「同窓会研究」をテーマとする僕としては見ないわけにはいかない。

といったきっかけでスタートから観始めているが、内容は非常に作り込まれていて見応えがあり、何より近代の日本スポーツを取り巻く環境がどうなっていたのかを理解する上で大いに助けになる。

2020東京オリンピック以前と以後では日本のスポーツ界にも大きな変化が訪れるだろうし、変化を起こしたいと思っている人間はあらゆる分野に存在するだろう。

部活動問題や日大アメフト事件、奈良判定事件など、古き悪しきスポーツ界の弊害が露呈し、新たな時代のスポーツのあり方が模索されている。

こうした中で、2020東京五輪を一つのきっかけとして、日本のスポーツについて「決算」しておくのは重要な機会だと思う。もちろんこの盛り上がりが「フィルター」となり、色々なものを見えなくしていく危険性はあるが、そのあたりを拾っていくのが今後スポーツに関わる研究者たちに課せられた使命だろう。

偉そうなことを言っているが、こうした造り手の意図や今この時代にこの作品が放映されていることの意味を考える上で、だから批評精神というものを鍛えなければいけないのだと痛感する。

我らが先輩方のライフヒストリーを描くドラマにも関わらず、「いだてん」を観ていないという人がOBOGの中にも多く存在する。理由を聞けば「時代が行ったり来たりしてわかりにくい」(それはドラマの1話1話がじっくりと観ないとわからない作りになっているからで、作品としての完成度を高めるためのテクニックだからで、自分の頭が悪いのを作品のせいにしてはいけない)とか、或いは観てないくせに「視聴率が低い」という話題だけはやたらに知っている。
(そもそも皆が皆リアルタイムでドラマを見る時代ではないのだから「視聴率」で作品の優劣を測るのがおかしい。ラジオすらタイムシフトで聴ける始末である。)
高い視聴率を獲得する番組が多くの人に受け入れられるという意味で良い番組なのはわかるが、低視聴率=ダメ番組、とはならない。いつまでドリフやトレンディードラマの時代の軸で番組を判断しているんだ。

 

この「批評の目」というのもこのブログを書く上での一つのテーマとしたい。
いだてんが無事「完走」した時、もう少しまともな目で作品の全体像を掴めるようになっていれば幸いである。

 

極右